幸袋名所

幸袋まちとは
幸袋町
幸袋町は、福岡県の中央部、筑豊平野の西端部近くに位置しており、筑豊を構成する自治体の一つで、嘉穂郡に属していました。中心市街地は、飯塚市中心地から北に約2.5kmに位置しています。
1889年4月1日、町村制施行により、幸袋村・庄司村・中村・吉北村・目尾村・柳橋村・津島村が合併し嘉穂郡大谷村(おおやむら)が発足。
1918年1月1日、大谷村は町制施行・改称して幸袋町となりました。
1963年4月1日、飯塚市・二瀬町・鎮西村とともに合併して飯塚市となり、自治体としては消滅。旧町役場は現在、飯塚市役所幸袋出張所(幸袋交流センター)として業務を行っています。

幸袋まちの名所
幸袋名所MAP

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旧伊藤伝右衛門邸
炭鉱経営者であった伊藤伝右衛門が大正時代中期から昭和初期にかけて自身の本邸として造営した伝統的建造物。門は福岡市天神の赤銅御殿から移築されたものです。庭園は「旧伊藤傳右エ門氏庭園」として2011年、国の名勝に指定されており、建物とともに一般公開されています。また、建物(主屋など7棟)は2020年に国の重要文化財に指定されました。
旧伊藤伝右衛門邸





夢の大橋
飯塚市川島と幸袋を結ぶ県道 鯰田中線(都市計画道路)に伴い新設された全長約1kmの大橋。炭鉱で使われていた巻き上げ機の台座をイメージした親柱がレトロな雰囲気を演出。
開通により、国道200号バイパスに向かう車が多い同市片島の水江交差点などの混雑緩和や、宮若市とのアクセス向上による産業振興が期待されています。
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笠城ダム公園
笠城ダム公園は広い敷地のあちこちに子ども向けの遊具があり、散策しながら体を使って遊べます。池の全周を取囲む遊歩道は舗装されており平坦で勾配が無く歩きやすいのでウォーキングにも最適です。また豊かな自然も満喫することが出来ます。春は遊歩道沿いのサクラやツツジが有名で多くの花見客で賑わいます。秋は色々な種類のドングリ拾いが楽しめます。





慰霊塔
太平洋戦争により多くの軍人戦死者のために建立されました。この塔は、幸袋中学校校庭にあったものを笠城ダム公園へ移動した。
また、本町では昭和35年に幸袋まち遺族会が発足された。



神社
飯塚市周辺の神社仏閣はパワースポットとして足を運ぶ方もいるようです。飯塚市には、周辺に強いパワースポットがあるという説があります。

撃鼓宮
中一自治会にある撃鼓神社下宮を笛吹権現と呼んでいた。この両権現は神功皇后が三韓出兵の際の神楽奉納で囃子の太鼓・笛を指導した神だと云われている。境内には神功皇后伝承にちなむ「乳の池」がある。


水祖神社
本殿天井に、雨乞絵馬など10枚の絵馬が飾られてあり、当時の世相や生活を見て取れる。

大谷神社
笠城にあり、山原に4基の祠からなる山伏塚があり、この山伏塚に祈願すると頭の病気など必ず治るという言い伝えがあります。

許斐神社
新町にある許斐神社、境内には須佐神社、稲荷神社、蛭子神社、天満神社が祀られ、旧長崎街道沿いに面していたため、道祖神の猿田彦神や庚申塔(こうしんとう)が多く合祀(ごうし)されている。かつては8月24、25日に「天神祭」と称して、神社境内や参道に露店が立ち並び、子供山笠や福引などの祭りが盛大に行われていた。丘の上からの展望は遠賀川や川島、立岩丘陵、福智山方面を望み、ふるさとの情景を思い出す昔懐かしい神社である。

五穀神社


津島貴船神社


濱生神社

許斐神社


薙野貴船神社


石動神社


五ヶ村水路
農業用水の不足に悩まされていた五ヵ村(片島、幸袋、中、柳橋、目尾)は上流の穂波川沿いの穂波町若菜に井ぜきを築き、徳前、飯塚を通る水路を開き、総延長7.5㎞、トンネル四か所をつくる大工事を行いました。
水路工事は、天保6年に始められ、3年2ヵ月に完成、その後も、何度も改修を重ね最後の穂波町秋松井ぜきが完成したのは明治13年であった。幸袋交流センター裏に現存する。




高取焼記念碑
白旗団地にある、高取焼初代八山の墓跡、秀吉の朝鮮軍の時、加藤清正の手で、高麗の井土から筑前に連れてこられる。
朝鮮の陶工八山(日本名は高取八蔵)によるとされている。
近年まであった朝鮮風の墓は白旗住宅団地の開発で移転、跡地には石碑が建てられている。白旗団地に現存している。




城ノ腰ため池(オニバス)
飯塚市指定天然記念物『オニバス』。
市内唯一の生育場所。60㎝~1mまでに生育します。




親孝行の脾
三軒家地区に建立されている孝子畠中好平之碑(こうしはたなかこうへいのひ)。畠中好平は、藩内三孝子の一人に数えられる大変な親孝行者でした。
天保7年(1836)黒田藩より褒賞と田地二反、好平一生の間の年貢と懲役の免除を賜り、安政5年(1858)藩主黒田長博(くろだながひろ)公によって箱崎御茶屋に召し出され直接お褒めの言葉を賜りました。




乳の池
撃鼓宮本殿横には神功皇后伝承にちなむ「乳の池」があり、皇后がこの池の水を汲んで授乳の祈願をしたとされ、祈願すれば乳の出がよくなるそう。
なお、白旗山の名前も皇后が白旗八流を奉納したことに由来する。




柳原白蓮歌脾
「筑紫の女王」とも呼ばれ、飯塚に縁のある歌人柳原白蓮の歌碑が旧伊藤伝右衛門邸近くの遠賀川河川敷に計3基建立されています。




こて絵
幸袋の本町にある旧家の白壁に見事な鏝絵を見ることができる。武士と家来、富士山とイノシシ、壁三面に描き出された鏝絵に左官職人の意気込みを見ることができる。こて絵(こてえ、鏝絵)とは、日本で発展した漆喰を用いて作られるレリーフのことである。左官職人がこて(左官ごて)で仕上げていくことから名がついた。題材は福を招く物語、花鳥風月が中心であり、着色された漆喰を用いて極彩色で表現される。これは財を成した豪商や網元が母屋や土蔵を改築する際、富の象徴として外壁の装飾に盛んに用いられたからである。幸袋の本町にある旧家の白壁に見事な鏝絵を見ることができる。イノシシ狩をする武士など、壁三面に描き出された鏝絵に左官職人の意気込みを見ることができる。




郡境石
第2目尾にある郡境石は穂波郡、鞍手郡の境場所で、勝野村の村民により建てられました。小竹はここから始まりこの筋は、小竹町役場へとつづきます。




幸袋小学校 庄司分校址之碑
明治9年に水江小学校簡易科として庄司小学校を設立 明治29年には、庄司尋常小学校(庄司本村に改称)明治42年には、学制改正により庄司分教場と改称された。大正2年に、現在地に移転され、昭和32年、幸袋小学校庄司分校と改称され、昭和63年に幸袋小学校庄司分校は廃校となった。